« 広島の”市内”問題 | トップページ | 生誕祭である »

広島の"市内"問題から派生して考えた事

…暇人かい。

 

 約40年前当時の教育カリキュラムだと小学3年生の頃社会の授業で住んでいる自治体がどんな成り立ちかを習っていたと記憶しているが、広島市の場合副読本("わたしたちの広島市"という名称だった記憶あり)で山陽本線が今のような場所に通されたのは旧西国街道(現在の広電2号線のルートが比較的近い)に沿う形で通したかったが反対運動で迂回したと教わったものだが、最近私はその理由は少し違うのではないかと考えている。

 

 その理由は、建設費の圧縮若しくは工期の短縮、またはその両方。

 

 旧西国街道沿いに通す形だと、繁華街のど真ん中を通すことになるのでいくら立ち退きさせる事自体にどうこうは無かったと思われる明治期でもそれが多数発生するのは面倒な筈だ。しかも忠実に通そうとするとグニャグニャ曲がっているのも面倒(だから前述の広電2号線も旧西国街道におおまかに沿うルートなのだろう)。東京方面から辿ると現JR広島駅付近までは旧西国街道に沿う形なので、今の繁華街に近い場所に広島駅を置こうとすると現在の広島市役所あたりのイメージになりそうだが、そうすると現在の駅前通りをなぞる形で現平和大通りか国道2号線まで行き、そこから西に向かう感じだろうか。しかしこのルートには重大な難点がある。このルートを通そうとすると、6本または7本の橋を架ける必要があった筈なのだ。しかも当時の太田川三角州の南半分はまだ低地や南端の方は海だった訳で、これを埋め立てるのもなかなか面倒な筈だ。向洋付近から現国道2号線に沿う形を取るのも同じ問題が発生する。

 

 と言って、橋を少なくしようとして北に迂回すれば遠回りだし線形が悪化するからほどほどのところにしたい筈だ。そうすると橋3本で済む現在の山陽本線のルートが妥協点としてはまあまあではなかったのではないかと推測できる。奇しくも?広島城が成立する前の古い時代の西国街道がこのルートに近いらしい(多分渡し船1回で済む三角州上端まで迂回するルートだろう)。

 

 山陽本線(開通当時は山陽鉄道)の開通時期を見てみると、広島まで開通したのが1894年(明治27年)、広島~徳山(山口県周南市)開業が1897年(明治30年)。私の描いたシナリオはこんな感じ。

 

(1)山陽鉄道は糸崎(当時は三原駅)から一刻も早く広島までの延伸を求められていた。
(2)その後のより西方への延伸は既定路線。
(3)宇品・呉の軍港アクセスも期待されていた筈。
(4)(3)重視なら南寄りのルートを取りたいがそもそも本命の(2)の工期が伸びる。
(5)現向洋駅あたりを「広島駅!」と言ってしまえば少しは早く開業できるが「そこは"広島"じゃない」と突っ込まれる(現在でも名前"広島市南区向洋"とは異なり"安芸郡府中町"にあるのだが)。
(6)広島市中心部にぎりぎりまで近づけ、かつ西方への延伸を優先するために広島駅は現在の位置に。延伸ルートは現ルートを想定。

 

 広島駅開業の年日清戦争が開戦したものだから、宇品線(広島駅~宇品港)は6km弱を17日で通したそうな…恐らく上記(1)は軍部から「1秒でも早く通せウキィー!」ってせっつかれていたに違いない。だったらいっそ海田市(かいたいち)辺りを「ここが広島駅なんじゃあゴルァ!」と言っておけば宇品線もスルー配置できるし呉線も直結で万々歳…な気もしなくはない。今だったら八戸と本八戸くらいの関係で本広島(それこそ現広島市役所近辺)設置できなくね?

 

 実は前述の「わたしたちの広島市」の記述、私は筆者の思い込みで書かれたものなのではないかと推測している。いや、資料を調べずにという意味ではなく、「繁華街と中心的な駅が離れている(駅前が寂れている)のは広島くらいだ」という…。私が住んだ範囲で駅と繁華街がほぼ直結していたのは実は大阪と仙台くらいで、名古屋は明らかに離れているし福岡(博多と天神)も明らかに離れている。むしろ古くから栄えている都市の方が離れている傾向が強いような気がしている。多分古い町程広島について私が推測したような事情があるだろうから、従来からの繁華街と駅を近付けきれないのではないか。頑張って近付けた場合自動車時代になって開かずの踏切問題が発生してみたり、新幹線が通るとなった時に新○×駅になってしまい…とそれはそれでいい事ばかりではない、としておこう。

 

|

« 広島の”市内”問題 | トップページ | 生誕祭である »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 広島の”市内”問題 | トップページ | 生誕祭である »